僕の名前 12


 その後、僕と明は長に祝いの品を届けるために訪れる客が途絶えるのを待った。もう今までのように喋れなくなるのではないか、と思うといくらでも喋る事は有った。その頃になるとすっかり慣れた冷たい風と生暖かい風は、もう恐ろしい物では無くなっていた。再び日が昇り、そして朝が来て、そして昼を過ぎた頃、長が僕と明を前にして付いてくる様に言った。それから僕達はひたすら歩いた。始めのうちは石畳みの上を、次は砂の上を、そして草むらを行き、更に少ししめった土の上も歩いた。いつしか僕達はまた、暗い洞窟の中を歩いていた。
 光を目指して歩いていた。そっちに行けば先に歩いていった明がいるはずだから。そう思いながら僕はひたすら光を目指して歩いていった。そしてとうとう、再び僕は光の中へ踏み込んだ。


 あの時、僕は滝のすぐそばの川岸に弟によって抱え上げられていた。頭を打ったのか、僕はしばらく意識を失っていたという。直前まで体験していたことが意識を失っていた間の夢だとは信じたくなかったけれど、それでも夢だったと思わずにはいられない。しばらくすると動けるようになったが、やはり体中が痛かった。弟が何度も、「兄ちゃんごめん、兄ちゃんごめん」と言っていたことがやけに印象的だった。すぐに追い着いてきた両親によって僕は病院に連れて行かれ、何も問題は発見されなかったけれど、その後この話は家では禁物の様なものになった。
けれど良く考えてみれば、もしかすると、弟の言う「兄ちゃん」が僕の頭の中でどこか不自然に感じられて印象的だったのではないだろうか。弟が僕のことを陽一と呼ばなくなったのは、あの時滝から帰ってきて以来ではなかっただろうか。その後、僕も中学での部活や、友達と遊ぶことの方がすっかり生活の中心になってしまい、ほとんど弟としゃべる事も無くなってしまった。いつもお前だとか適当に呼んで、僕が弟を明、と呼ぶ事もほとんど無くなってしまった。別に仲が悪かった訳ではない。ごく普通の兄弟だった。けれど考えてみれば、やはり滝から帰ってくる前と後では違ったのではないだろうか。
 なぜ、こんな事を急に思い出したのだろう。そうだ、この風だ。冷たいのにどこか生暖かい風が、カーテンを揺らして入ってくる。ふっ、と思って自分の年を指折り数えてみた。今年で僕は28歳だ。丁度15年。もしかして今夜辺り、新しい長の就任の祭りが行われているのではないだろうか。もしあの夢の中での出来事が本当もあったなら、僕と弟との「兄弟の繋がり」という奴が還ってくる。一体どんなものだったんだろうか。再びカーテンが揺れ、今度は僕の前髪をも揺らした。冷たい風が頬に気持ちいいが、時折吹いてくる生暖かい風が僕の熱と火照りを思い出させる。あぁ、でもどこか懐かしい感じがするのだ。
 チリリリリリリ。携帯が鳴った。表の小窓に「弟」の文字が表示され、もしもし兄ちゃん?と言っていつも電話をかけてくるその声までが想像できた。けれど、今日は違う予感がある。僕は通話のボタンを押す。 「もしもし明?」
「あ、陽一?なんかさ、急にぼく達が落ちた滝にオオサンショウウオがいた事思い出しちゃってさ」


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