春風に吹く空 12


 僕は八日の明け方、つまり昨日の明け方、というよりはまだ幾分夜中に近い頃に汗をかいて眼を覚ました。僕は二日くらい前から昼間は微熱が続き、夜は熱が高くなるという事を繰り返していた。本当は風呂には入らないで布団をかぶって寝ていた方が良いのだ郎けれど、その張り付くシャツの感覚に嫌気のさした僕は、シャワーを浴びた。新年度になったとはいえ、この街の春はまだまだ寒かった。特にあの時間は一日で最も冷え込む時間帯に含まれる。僕は少し凍えながら淳に処方して貰った風邪薬を飲んだ。風邪薬を飲んでしばらくまどろんだが、かすかな頭痛を感じて休むことは出来なかった。そこでこれまた淳に処方して貰った頭痛薬と睡眠薬を同時に飲んだ。そうすると僕は不思議なくらい深い眠りにつくことが出来た。
 僕は前にも思い出したとおり、その夢の中で空と海を見ていた。僕は空から海へではなく海から空へ落ちていった。僕の体はきらきらとした物で囲まれていた。
 目が覚めた時は昨日の午前中だった。何時だったか覚えていないが、そこから僕はまるで憑かれたかのようにピアノを弾いた。ショパン、リスト、シューマンは当然のこと、思いつく限りの好きな曲を弾いた。あんなに真剣に集中してピアノを弾いた事なんて、もう随分と長い間なかった。だから自然とお腹が空いた。そこで少し遅めの昼食を作って食べた。しばらくの間まともに食べていなかったにもかかわらず僕は随分と沢山食べたように思う。僕は満腹になり、しばらくリビングの窓から空を眺めて過ごした。
 そこに、電話のベルが鳴り響いた。今思えば明らかにおかしかっただろう。まるで僕の頭の中に電話のベルが存在するようだった。一度ベルが鳴るごとに僕の頭は酷く痛んだ。
「あたし、決めたの。結婚するわ」
深雪はそう僕に告げた。酷い頭痛だった。おかげで何度か深雪に聞き返すことになった。けれど僕は彼女の幸せを願って、そしてもうこれ以上迷惑をかけないことを願って、頭痛をばらさないように精一杯の努力をした。そして、その短い電話は終わった。それからもしばらくの間、僕は椅子に座って頭を抱えていた。
 どれくらいの間僕はそうしていたのだろうか。いつの間にか頭痛は治まっていた。僕はまだ風邪が良くないのだと思ってもう一度寝ることにした。ただ、五時からは由香利がピアノ教室に通ってくる予定だからと携帯のアラームをセットした。
 僕はアラームをセットした四時半、携帯の振動で眼を覚ました。マナーモードに設定した覚えは無いのにな、と不思議に思いながらも服を着替え、そして二人でお茶を飲むためのコップと、お茶の葉だけを入れた急須を用意した。お菓子はいつも由香利が買ってきてくれるから、皿だけを出しておく。そして時間がまだまだあることを確認して僕はベランダのガラス戸を開けた。この時つっかえ棒をしたのはいつもの癖だ。僕は空や海を見ているときに誰かに邪魔されるのは嫌いだ。別に今まで誰かが邪魔したわけでも無いのだけれど、なぜか僕がやってしまうことなのだ。きっと一人になりたいときに僕が空や海を見るからだろう。
 そして僕は気付いた。目の前を飛んでいく鳥たちの鳴き声が聞こえないことに。ベランダから見下ろす街の喧噪が聞こえないことに。頭上を迫力満点で飛んでいく飛行機の爆音が聞こえないことに。僕自身の足音が聞こえないことに。風の音が聞こえないことに。そしておそらく、どんなに近くにいても波の音は聞こえないであろう事に。その瞬間、僕の頭の中は真っ青になった。普通こういうときは真っ白になるものらしかったが、僕の場合は見上げた空と同じ色に染まってしまった。からっぽだった。  ただ、遠くを見つめることしか出来なかった。風が僕の頬をなで、髪を揺らしたけれど、そのにおいまでが感じられたけれど、音は聞こえなかった。絶望、というのはまた違ったかもしれない。それは、僕の耳が聞こえなくてもピアノに鍵盤が存在する限り一定の音は出せるし、由香利のように音楽を楽しむ方法も知っていたからだろう。しかし、もう自分の求めていたように音楽をする事は出来ない。それこそ、卒業するときに冗談で書いた遺書のようにギラついた気持ちで演奏することは。それは、諦めに似ていた。
 僕は遠くの海と、それに続く青い空を見ていた。それくらいしか自分に出来ることは無いように感じたからだ。全てがきらきらしていた。この時、本当は背後で由香利が僕を呼んでいたに違いない。けれど、僕の聴覚はもうどんな音も捕らえやしなかった。僕はただ、空が飛べたら良いのにと夢を思い出していた。
 そしてもう一度激しい頭痛が僕を襲った。それは電話の時よりも激しいものだった。僕はベランダの柵に急に倒れ込んだ。体の下でいつも柵がぐらついていることは感じていた。あまりの痛さに僕は何度か柵に体をぶつけた。本当ならばベランダのコンクリートの柱や振り向いて部屋に由香利がいることに気付く事も出来たはずだった。けれど僕はベランダの柵を選んでしまった。
 僕は空を飛んでいた。海からではなくベランダからだったけれど、夢と同じで僕は空に向かって落ちていく途中だった。僕の体の周りは本当にきらきらしていた。僕はきらきらと一緒に長い距離を落ちていく。随分と長い飛行のように感じられた。世界が凄く綺麗に見えた。何枚かの桜の花びらが僕と一緒になった。風が全身を包んだ。そのあまりの激しさに、僕はもう一度音を聞いているのかのような感覚に襲われた。
 終わりは唐突だった。何の音もしなかった。ただ真っ黒が広がって、次に僕が気付くのは夜中に空っぽになった僕の部屋での事でだった。


|