春風に吹く空 6

しかし高木一人は座ったままで、由香利を見上げると顔を見て言った。
「いいえ、まだもう一つ確かめたいことが有るのです。久保田さんも呼んでいただけますか?」
「わかりました、呼んで来ますね」
由香利は不安そうな顔をした。けれど彼女の一体どこに不安がる必要が有っただろうか。何もないではないか。そして寝室に向かい背を向けた由香利に向かって後ろから、
「あなた方はどうして我々に隠し事をなさっているのですか」
高木が問いかけた。けれど由香利は答えなかった。いや違う。僕は知っている、本当は答えることが出来なかったのだ。
「何の確認でしょうか」
由香利と淳、そして吉井を座らせた高木が口を開いた。
「由香利さん、あなたは耳が聞こえていないのでしょう?」
三人が一度に息を飲んだ。そして驚きが隠せない吉井をよそに、二人が隠していたことを正直に話した。
「わたしは耳が聞こえていません。聞こえなくなったのは二年前、久保田とりょう君と出会った時でした」
彼女はその日、高熱を出して倒れ、救急病院に運ばれた。原因までは言わなかったが、とにかくその熱が下がったとき、彼女は聴覚を失っていた。
「それでも、わたしが声を出すことは出来ました。聞こえなくてもしゃべることはできるのです。ただ、相手の声を聞く事は出来ません」
そこで由香利は世に言う読心術を学んだ。その過程は僕も良く付き合わされたから覚えている。ものの二ヶ月もすると彼女は僕の言っていることを読み取れる様になった。
「でもなぜそれを隠していたのですか?」
「始めは隠すつもりはなかったんです。でも、段々と言えなくなっていって」
由香利の声が弱くなって消えた。そう、彼女は自分のハンディキャップをいつも隠したがる。しかし淳は違ったようだ。
「だって、耳が聞こえないのにピアノ教室ですよ?おかしいとは思いませんか?」
「そう、そこが府に落ちなかったんですよ。竹田さんが聴覚を失ってしまっている事には途中で気付いた。でも、ピアノ教室というのはどういう事なのかさっぱり」
高木が不思議そうに由香利の顔を見た。
「それは、私が聴覚を失って、それから人と会話する術も身につけましたが、それでもやっぱり気分が晴れなくて落ち込んでいた時期が有ったんです。そんなときにりょう君が音楽って凄いんだよって言い出したんです」
そう言った僕に向かって、始め由香利は自分の座っていた椅子のクッションを投げつけてきた。何も聞こえないのに音楽なんて分かるはずがないじゃないの、そう言って怒ったのだ。けれど、ぼくは彼女をピアノの下に座らせて、一曲弾いて見せた。
「音は聞こえないの。でも、低音の振動を感じることは出来るのです」
それから彼女は週に一度、僕のピアノ教室に通うことになった。淳は始めのうち半信半疑で全く僕のピアノ教室を理解してくれなかったけれど、実際に一度ピアノの下に座って聞いてみて、それからは時々淳自身も通ってくるようになった。実際にはピアノを弾けるように練習するわけでもないし、僕もピアノの指導をしたことは一度もない。けれどその代わりに毎回心ゆくまで僕はピアノを演奏し、由香利はその低音の振動を体に直接感じ、そして音楽の基底について語り合ったのだった。
 今度こそ高木が立ち上がって言った。
「これで納得できました。お二人とも長々と本当にありがとうございました」
「良いんです、彼のためなら。大切な友達ですから」
そう言って貰えるのが僕には素直にとても嬉しい。二人に伝える事が出来ないのが残念だけれど。


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