春風に吹く空 7


 吉井と高木が由香利のアパートを出ると時刻はもう既に昼に近かった。
「意外に時間がかかってしまいましたね。次に行く前にどこかに食べに行きましょうか」
そう言うと吉井は近所に食べる所は無いかと見渡し始めた。
「そうだなぁ…お、電話だ」
いくらか短い返事を繰り返した後に高木は電話を切った。
「月見里りょうの検死が始まったそうだ。取り敢えず始めに胃の内容物を確認して、睡眠薬が死亡に関係しているかどうかを確認したそうだ」
「結果はどうだったんですか?」
「それが、体内からは睡眠薬はほとんど検出されなかったそうだ」
高木の話によるとこうだ。僕は確かに死ぬ前に睡眠薬を飲んでいた。しかしそれは生きていくことに問題の有る量では無かったし、そもそも睡眠薬を飲んだのも死亡よりも10時間以上前の事だった。死亡時には眼が覚めていたと考えるのが自然だろう。体内から検出された他の薬とも合わせて考えると僕はどうやら風邪を引いて風邪薬を飲み、そして眠るために睡眠薬も飲んだのだろうということだった。本当は淳に同時に飲むなとは言われていたのだが、まぁそれでも問題は無かったというのが検死官の考えのようだ。
「そうだったんですか。死因の特定はこれからですか?」
「そうらしい」
良いながら二人は蕎麦屋に入っていった。そばを注文しながら二人の会話は続く。
 「耳が聞こえないと言うことが分かってしまえば竹田の行動に不審な点はなくなりますね」
「そうだな、女の手では男を、いくら月見里が小柄だったとはいえ一人の人間をベランダから落とすことは無理だろうからな」
「お、そばが来ましたね。頂きます」
二人はいくら僕自身の話とはいえ他の人から聞けば物騒な話を続けながらそばを食べる。
「久保田の方も解剖結果から薬を使っての殺人計画は立てられないことが分かったしな。それに昨日のアリバイも病院の方に行けばすぐに確認がとれるだろう」
「そうですね」
「午後からは“みゆきさん”だな。今の電話でその人の住所を調べてくれるように頼んでおいたから、すぐに返事が来るだろう。それから、まぁ大学時代の友人って一覧も貰ったから回ってみるか?まぁ特に恨みを買っていたという話は無かったからあんまり成果は期待できないだろうな」
二人はそばをすする。一方僕は考えていた。少しずつではあるが、記憶が戻ってくる。記憶にあるのは一昨日の夜熱が出たことだ。その原因は由香利が言ったように、しばらくの間睡眠薬を飲んでも浅い眠りにしかつくことが出来ず体調が悪く、あまり食べてもいなかったことだ。熱が出た僕は薬を飲んで寝た。久しぶりに深い眠りについて、昨日の朝起きたときには熱も微熱程度に下がっていた。
夢の中で僕は遠くに見えるきらきらと光る海とそれに続く空を見ていた。僕は空と海が好きだ。空は小さいときから好きだった。海が好きになったのは大学に入ってからだ。大学に入って実家を出るまでは僕は海のない街に住んでいた僕はほとんど海を見たことがなかった。しかし大学は海からそう遠くない所にあったので、自然と僕は良く海を見に行くようになった。海は広かった。沢山の生き物が住んでいて、僕にとってはいつも未知の存在で、それ自体が何かひとつの大きな生き物の様だった。そして僕は海に引かれていった。僕があのマンションの十四階を選んで住んでいたのもベランダから遠くに海と、それに繋がる空が見えたからだった。
夢の終わり、僕は空に飛び立った。そして海へ昇っていった。この表現は矛盾しているかもしれないが、僕にはそう感じられたのだ。そして夢は終わった。目が覚めて、僕は水を一口飲んで、そしてピアノを少し弾いた。今思い出せるのはここまでだ。
「お、電話だ。ちょっと失礼」
言って高木は携帯電話を取り出した。手帳に何かを書いている。おそらく次に回ると言っていた深雪の住所だろう。横ではそばを食べ終わった吉井が口を拭いていた。
「次の行き先ですか?」
「そうだ。それと新しい情報だ。昨日元恋人は害者の月見里に電話をかけていたそうだ」
高木は手帳を閉じて背広の内ポケットにしまった。
「食べ終わったのか?なら行くぞ」
立ち上がり二人は金を払うと外に出た。桜が咲いていた。少し寒いこの土地ではまだ開花したばかりで開いていないつぼみも目立った。
「春なのにな。何もこの季節に死ななくたって良いのにな」
ぽつりと高木が言った。聞き取れなかった吉井は慌てて顔を見ようとするも既に遅く、高木は歩き始めていた。歩く先には黒塗りの車が止めてあり、そこには早くも散ってしまった桜の花びらが張り付いていた。それを悲しそうに見やると高木は助手席に乗り込んだ。少し遅れて吉井も乗り込み車は発車した。何枚かの花びらが車の速度について行けずに空中に残った。


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