春風に吹く空 9


 そこから深雪が語ったのは、僕とつきあい始めた時期と、そして二年前に事故を起こした事だった。運転していたのは僕だった。二年前、季節はずれな春の雪に凍結した道を僕達は車で走っていた。そして僕はスリップ事故を起こした。幸い追突したのは他の車ではなく木だったけれど、それでも乗っていた僕は怪我をした。
「りょうはその事故で手を怪我して、プロのピアニストとしての道をふさがれたの」 そう、僕は当時自分の一番大切にしていた物を失った。もう人前でプロとしてピアノを演奏することは出来なくなってしまったのだ。僕は何日も部屋にこもり、誰にも会おうとしなかった。しばらくすると人に会うことも出来るようになったが、それでも僕はまえ向きにはなれなかった。どれほど人に当たっただろうか。特に深雪には。後に僕はピアノ教室を開いた。ピアニストとしては生きていけないが、小さい子ども達にピアノを教えるくらいにはまだ手が動いたからだ。けれど、それを思いつくまでの僕はずっと暗い中にいた。そして僕のせいで事故にあったのに深雪に攻撃した。ただの八つ当たりだ。
「私自身には怪我は無かった。でも…それでもやっぱりりょうには腹がたったわ。でも、りょうを傷付ける事になるから言えなかった言葉もあった」
僕を許してくれなくても仕方がない。僕がいけなかったのだ。事故を起こしたのも僕だし、彼女を傷つけたのもまた僕だ。そう、彼女に例えどれだけ恨まれていようとも僕は許しを請うことなど出来ない。しかし、深雪の側から僕を傷つけることになるから黙っていた事って何だ?
「それから、どうなったんですか?」
吉井が話しに口を挟んだ。この若い刑事は人の恋愛話を聞くのが好きに違いない。事情聴取としてよりやたら楽しそうに話を聞いていた。
「とにかく、わたし達はお互いをこれ以上傷つけないようにって別れたんです。わたしから言えるのはそれだけです」
いや、僕に隠していた事は何だ?それを彼女は自ら語ろうとしない。そして吉井と高木もそれを無理に聞こうとはしなかった。そのことを僕はもう二度と知ることが出来ないのだろうか?
「そうだ、昨日のアリバイについてはまだ伺っていませんでしたね」
吉井が言うと、深雪は職員室に自分の手帳を取りに行かせて欲しいと教室を出て行った。
 「随分と悲しい別れ方をしたんですね。でも、彼女の話を聞く限り恨みよりも害者に対する思いやりの方が感じられましたね」
「そうだったな。無理に話させてしまって悪いことをしたかもな。でもここまで来たら最後まで話して貰うしかないだろう、電話のことも」
「そうですね、印象だけでなく事実としても彼女のアリバイも押さえたい」
お待たせしました、と言いながら深雪は戻ってきた。そして手帳を開く。
「昨日もここで授業をしていたんですが…そう、午後の1時半から二時半までの幼稚園の子どもを対象としたエレクトーンのクラスでした。そこから休憩が入って四時から五時までの間は小学生の男の子とピアノの個人レッスン。6時から7時半は社会人対象のドラムのクラスでした」
「なるほど、一応後で他の職員の方とも確認を取らせていただきますね。それから、電話をかけられたのは?」
「それは、二時半から四時までの間でした。あ、昨日の履歴を見ても良いですか?」
言うと深雪はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。
「電話は二時四十六分に、近くの公園からかけました。その電話は五分くらいで切ったと思います、それでスタバに寄ってコーヒーを買って職員室に戻りました」
「そうでしたか。失礼ですが、その内容も教えていただけますか?」
言われて彼女は少し困った顔をした。
「こんな話をしたばかりなんですけど…、あたし、結婚する事になったんです」
そうだ、確かに昨日の昼過ぎに彼女は僕に電話してきた。彼女は突然「結婚する事になったの」と言った。事故の後、僕と別れた後、彼女は新しい恋人を作ろうとは思わなかったという。しかもピアニストも止めてしまった。それを見かねた母親が、お見合いの話を持ってきたのだという。それは丁度年末の頃のことだったらしい。「あたし、決めたの」彼女は言った。彼女はそのお見合い相手との結婚を決めた。
「いつまでもりょうの事引きずっているよりは、母親の選んできた相手かもしれないけど、その人の事を大切にして、明るく生きようと思ったの。それで昨日は結婚の報告のために電話したんです。それなのに」
それなのに、自分が新しい生活を始めると報告した直後、月見里りょうは死んだのだ。僕は彼女の幸せを祝福した。けれど、その数時間後には死んだのだ。彼女は今一体どんな気持ちでいるのだろうか。それは僕にはとてもではないが想像出来ない感情だろう。そう、こんな僕の考えなんて、所詮は先立ってしまったものの勝手なものでしかないのだ。そして僕は彼女の流す涙を初めて見た。彼女は僕とどれだけけんかしても泣いた事なんて無かったのに。それに最後の時も。
「今思えば、昨日の電話の時のりょうの様子はおかしかったわ。どうしてすぐに様子を見に行ってあげなかったんだろう」
深雪はつぶやいた。ぼくは何度も深雪の話を聞き返したらしい。けれど、彼女に様子を見に来て貰うような資格は無かっただろう。
「では、これで失礼させていただこう。今日は申し訳なかった」
今回も終わりを告げたのは高木の一言だった。
「本当に、急にお話を伺ってすみませんでした。ありがとうございました」
「いえ、あ、はい」
深雪は急に立ち上がって帰ろうとしている刑事二人に少しきょとんとしていた。けれどすぐに涙をぬぐうと、二人の刑事を教室の外まで見送った。僕は彼女の幸せを祈った。僕の方が彼女より天国に近い。だから僕の願いは普通の願いよりも叶いやすいはずだ、などと打算的なことを考えながら。やはり僕は身勝手だ。


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