和音1

 秋も終わりに近付いてきた雨の日の晩、俺は一人の男を拾った。拾ったと言うのは良く分からない言葉だと思うが、正確に言うとこうだ。塾講のバイトが終わって夜遅くにくたくたになって家に帰ってみると、家の前にそいつが立っていた。どうやら傘が無くてずぶ濡れになったそいつは、一度濡れてしまったならば濡れて帰ればいいものを、俺の家の前でずっと立ちつくしていた。その顔がやたらと白かった。心配になった俺は家に呼んでみた。タオルと、引き出しの中でしわくちゃになっていたTシャツを渡して「ドライヤーそこ」と言うと、それまで何も言わなかったそいつは、抑揚は無いけれど良く通る声で一言、「ありがとう」とだけ言った。
 俺が暖かいコーヒーを入れたマグカップと、仕方ないから自分用は茶碗を持って台所から部屋に入ると、そいつの髪は乾いていた。それでも顔は白いままだった。そのきれいな白い顔に合わせて細身なものだから存在を疑いたくなった。目の前にマグカップを差し出すとそいつが受け取り、その瞬間、マグカップの軽くなる感触から、そいつが本当にここに存在しているのだとかすかに感じられた。
「名前は?あと、キャンパスでは見たこと無いけど、俺と同じ大学の生徒?俺3年だから学年違って見ないとか?」
マグカップをことりと音を立てて机に置いたそいつは言う。
「ユサヤ。大学生ではない」
ユサヤ、聞いたことのある名前。でも、それは先日読んだ本の中に出てきた名前だった。しかしいくら大学生でないとはいっても本の登場人物ではあるまい。
「じゃあ働いてるんだ?」
「まぁ、そうなのかもしれない」
「何だよ、そうかもしれないって」
俺は笑ってしまったが、ユサヤと名乗ったそいつの方は今までと同じ顔のまま言った。そいつは少し首を傾けた。
「仕事は確かにこなしているけれど、でもそれで金を稼いでいる訳ではない」
ユサヤは少し笑って言った。笑うとその作り物の様なきれいな白い顔が、いくらか現実のものに見える。
「ふーん、でもそれじゃどうやって飯喰ってるの?てか食べれてないからそんなに白いんじゃないの?大丈夫?」
ついつい出てしまう、俺のおせっかい。
「大丈夫、生活に必要な分は食べることが出来ている。それに今日だって、食べる為にそこで待っていた」
「なんだよそれ、それじゃ俺の家に飯たかりに来たみたいだな?」
ちょっとむっとした俺はコーヒーの入った茶碗を乱暴に机に置き、台所へ立った。
「いや、そんなつもりは無い。それではさすがに私の立場がなくなってしまう」
そう言ったユサヤは笑った。おれは冷蔵庫から牛乳をだしながら、そいつが笑うのを見ていた。少し遅れてそいつの声が俺の耳から頭に届き、良く通る優しいどこか中性的な印象の声だと感じ、そして俺はそいつが存在していることを今度はちゃんと感じた。そして、先日読んだ本を思い出していた。
「何か、神話に出てくる夢喰い神ユサヤのイメージにそっくりだな」
そういうとなぜかそいつはまた元の白いだけの、存在の薄い顔に戻って一言、「ありがとう」と言った。


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