和音5

 おれはピアノを弾いていた。おれが見えるということは、これは夢である。ピアノは下手だ。正直弾きたくないのだが、台所には母親がいて怖い顔をしてこちらを睨んでいる。主旋律の和音が上手くひけない。何度も同じメロディーが出てくるから、何度も不協和音が響く。何回確かめてみてもおれは正しい音を押さえているはずなのに、いつまで経っても不協和音だ。間違えたところをもう一度弾き直せばいい物をすっ飛ばして無理にでも最後まで弾こうとする。右手と左手の動きを完全には覚えていない物だから、所々止まらないと次に進めない。どう練習すれば上手くなれるのか俺は知っているのにおれはそれをしない。早くピアノの練習を終わらせて、宿題も終わらせて、外に友達と遊びに行きたいから、取り敢えずこの曲を最後まで弾ききりたいのだ。
少し考えてその人は言う。
「じゃぁ音楽は好きなんでしょう?」
「うーん、分からない。でもピアノ以外のやつは好きかも」
「やっぱりそうなんだ」
おれは練習を続ける。母親以外の人に見られていると思うと、意外にも少し真面目にやろうという気が起きた。もう一度ずつ、右手と左手を別々に弾いてみよう。
 「ピアノは嫌いなの?」
「ピアノの練習は嫌い」
「それはどうして?」
「みんなピアノなんかやってないもん」
「本当にそんな理由なのかな?今日は学校でピアノが弾けるって自慢してきたんだろ?」
おれは少し考える。みんなと同じ事が出来ないから?遊びに行けないから?母親が怖いから?
「おれ、他にもやりたいことがあるのに、それが出来ないんだよね」
本も読みたいし、プラモデルも作りたいし、ラジコンの改造方法も知りたいし。裏山の探検もまだ終わってないし、犬も飼いたい。
「そうか。少し毎日が忙しいんだね」
おれはまだ忙しいというのがどういう事なのか良く分からない。
 「音楽は好きなんだろう?ピアノの練習は嫌いだって言ったけど、ピアノも嫌いなの?」
「ううん、そんなことは無いよ!ピアノ大好きだよ!」
おれは即答した。そうだ、本当はピアノ好きだったんだ。最初はテレビで見て、その次にいとこが弾いているのを見て、それで母親に頼み込んで小学校に入ると同時にピアノを習い始めた。おれは徐々に色々な事を思い出し始めた。
「じゃぁ、これからは練習も頑張れるかな?だって君は好きでやっているのだろう?」
そう、俺はやっていける。自分の好きなことで忙しくなっているんだから。
「もう一度ピアノを弾いてごらんよ。今度は上手く弾けるはずだよ」
おれはピアノを弾いていた。隣には夢喰い神ユサヤが立っていて、おれを見ていた。練習している曲は二回目の発表会で弾いた曲だ。和音の所にさしかかり、おれは少し不安になったが、不協和音になることは無かった。今度は完璧な和音だった。おれはピアノが好きだったし、音楽は人を拒まない。弾き終わって横に立っていたユサヤを見た。拍手をしてくれた。しかしその顔は白くなく、獲物を見つけた獣のようだった。手にはくすんだ赤色の風船のような物が握られていた。ふわふわとしていて少し境界が曖昧だ。その境界がどんどんと曖昧になっていくのを俺は見ていた。そしておれはくすんだ赤に飲み込まれて、俺は部屋に一人きりになるのを感じた。


戻る 次へ
小説へトップ